なぜ人は物語を必要とするのだろうか?
私は小説や漫画からが多いのだけど、べつにTVドラマだって映画だってオンラインゲームだって構わない。SFだろうがラブコメだろうが橋田寿賀子劇場でも構わない。民話でも神話でも都市伝説でも構わない。位相幾何学(トポロジー)的にいうところのストーリー。なぜヒトは自分以外のストーリーが必要なのか?
今回の作品は1982年に公開され、ひょっとしたら来年にリメイク作品が出るかもしれない(実に30年後にだ!)との話もある、今だになにかと引き合いに出されるSF映画なのです。でも一方では、あまりにも内容がやたらめったら暗くて陰湿なので、主人公 – デッカード – 演じるハリソン・フォードはヒット作でありながらも自分の作品とは認めたくない、との話があるくらいだ(真偽のほどは知りませんけど、なんとなく納得してしまいます)。
さて、この作品では外せない存在が三つある。一つ目はレプリカントと呼ばれる人造人間。二つ目はその創造者であるタイレル博士。ちなみに彼はそのレプリカント製造最大手タイレル社の社長でもある。そしてその社長秘書を務めるレイチェルが三つ目だ。先に言ってしまうと、彼女はタイレル社が誇る最高級レプリカント:ネクサス・シックスなのだが、その事はまだ本人には知らされていない。つまり、自分を人間だと思っている人造人間なのだ。
映画の中で、タイレル博士とレイチェルがレプリカントである事を見破ったデッカードとの会話が私にはとても印象的なのです。
タイレル博士:「(レプリカントであるレイチェルの)感情が目覚めてきた。そのために 何か いら立っている。数年分の経験しかないからな。過去を作って与えてやれば 感情も落ち着き制御も楽になる。」
デッカード:「過去? 記憶のことか?」
■タイトル
BLADE RUNNER
■販売元
ワーナー・ホーム・ビデオ
■内容(Amazonより)
2019年、酸性雨が降りしきるロサンゼルス。強靭な肉体と高い知能を併せ持ち、外見からは人間と見分けが付かないアンドロイド=「レプリカント」が5体、人間を殺して逃亡。「解体」処分が決定したこの5体の処刑のため、警察組織に所属するレプリカント専門の賞金稼ぎ=「ブレードランナー」であるデッカード(ハリソン・フォード)が、単独追跡を開始するが・・・
デッカードとレプリカントのリーダーであるロイが対峙するクライマックス・シーンや、東洋と西洋の文化が入り乱れカオスと化した未来都市ロサンゼルスの描写は、後のSF映画に多大な影響を与え、現在でも様々な議論を呼び続ける映画史に残るSF映画の金字塔的作品!
全くもって合わせ鏡だとしかいいようのない設定を、このタイレル博士はレプリカントに施すのである。(安全弁として)自分より短い寿命にする、という設定だ。ヒトは、神にされたことを自分の創造物にもしてしまっているのだ。そしてそれが無自覚の防衛策だという点では、- 無神経な言い方で申し訳ありません – 虐待を受けた子供が自分の子供を虐待してしまうのに似ている(それは自己を守るためなのだ)。とすればこの映画のラストシーンは驚愕である。この子は黙ってそれに耐え忍ぶほどお人好しではなかった。自分の親を(抽象的な意味でなくて、まさに張本人を)自らの手で殺して終焉をむかえようとするのだ。
なぜこの世に神はいないのか。
最初から悪魔なんかは存在しやしないのだ。在るのは神とヒトだけだ。そして未完成で不安定なヒトは神から与えられるはずだった「過去( or 記憶)」を後生手にすることができず、ただイライラとしてしか生きていけず、あてもなく消費を繰り返し、自分以外のストーリーを渇望するのではないだろうか。もちろん、いくら与えられても満たされることが無いことは – それが神から与えられたもので無い以上 – 無駄であることは決まっているのだが。何かに追い立てられ、何かの不安感に怯え、何かが欠落していることを認識してヒトは死んで行くだけだ。・・・やれやれ、全く、レプリカントもいい迷惑だよな、ホント。願わくば、彼らの魂も私たちの魂も神がいる同じ場所に行って – 口喧嘩している嫁姑にはさまれた旦那さんのように – 人間とレプリカントが喧嘩しているのを神が肩をすくめて逃げていく、なんてのがいいオチだと思うのだが、どうだろうか。