「どくとるマンボウ青春記」

 このブログでご紹介している本は大なり小なり私に影響を及ぼしている作品ばかりです。なかでもこうして文章を書くとき、いたるところでひょこひょこと顔をのぞかせる作品があるんです。言いまわしや話の流れなどは – 悲しいかな – かなり意識してしまってます。とはいえ、この作品を読んで二十年近くがたっているのです。いい加減こなごなに砕いて消化してしまってもいいように思うのですが、書くと似てくるんですよねえぇぇぇッッッ。なんの因果でしょうか。読む人が読めば「ああ、やっぱりね」って言われそうなので、先に明言しておきます。ええ、思いっきり影響されてますが、それが何か!
 著者の名前は知らなくても「どくとるマンボウ航海記」というタイトルは見聞きしたことがあるのではないでしょうか。夏休み恒例の夏の100選のなかに必ずあって – 私が学生の頃の話ですが – 気楽に読めそうだと手にとったクチです。確かに面白かったし、その時まで自分が知っていた文学と呼ばれる作品とは全く違う新鮮さを感じて – 大げさに言えば – 新たな息吹を感じさせてくれました。文学って窮屈なもんじゃないんだ!ってね。その後著者の純文学作品である「夜と霧の隅で」「楡家の人びと」「木精」も読んでますます著者が好きになりました。でも巡り合わせ的には後の方で手にしたこの「青春記」が最後まで私の手元に残ることになったのです。 北杜夫ファンならご存知だと思いますが、著者にとってのドイツの作家 トーマス・マン の「トニオ・クレーゲル」が、私にとっては 北杜夫 の「青春記」になっちゃってるのだ。いやもうその内容たるや青臭くって改めて書くのも恥ずかしくなるくらいですが、仕方ないのかな、こればっかりは・・・。
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■出版社
中央公論社
■著者
北 杜夫
■内容(カバーより)
 青春 – かけがえのない万人の心の故郷。なつかしくも稚拙なもの。活気に満ちて、さびしいもの。著者の個性的な、爆笑を呼ぶ、しかもひたむきな青春の記録は、人生の門口を歩もうとする者へ、何ものかを教えるであろう。
 私がこの作品に出会ってした事。
 1. まずは単語を調べた。なにせ著者はいわゆる戦中派の作家で、しかも「信州の旧制高校生」出身なのだ。出てくる単語が今とは明らかに違う。だからといって、その単語を知らなければ理解できないなんていう崇高な文章ではないので、意味がわかんないままでも全然大丈夫なのだが(逆に作家である限りそれは当然の配慮だと思うのですが・・・)。でも著者の場合、調べれば調べるほどその単語でなければいけないから – それを表現するにはいくつかある中でそれが適当だから – その単語を使っているだけなのが分かってくる。漢字辞典片手に知らない単語をしらみつぶしに調べ、脚注番号をうち、欄外に言葉の意味を書き加えていきました。
 2. 文章の構成・連なり方を考えた。何度読んでも、著者の文章は読みやすいと感じる。どこに読点を打つのか、打たないのか。それによって形成される1ブロック分の文がさらに句点によって綿密に配列されていき、1段落を形成する。次にこの意味を持った複数の段落が前後の関係を保つように配列されて1章を形成していく。じつに上手く配列されていると思う。
 こういうバランス感覚っていうのは天性なんでしょうね。でもね「ほらどうだ、上手いだろう」って感じが微塵もないところに私は一番惹かれているのかもしれません。

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