彼女は理性的で合理的な観察者であろうとした。
「ただ死なずにいることと、生きることとは同じではない。何もしないで寝ているだけなら、生きていることにどういう意味があるというのだろう」これが五体満足の学生の言葉なら感傷的にもなろうが、癌に侵され、死が確定した社会人の言葉であれば、それに耳を片方だけでも傾ける価値はあると思う。そして、その考え方はすべてに徹底される。手術の為に患者を病院で待機してもらう行為に対して、本当に時間のない人間から時間を奪ってどうするのだと叫び、病気の時はゆっくり休みなさいといえば、癌は休んでいれば治るのか?! やりたいことに専念しなさい ではないのか! と吠えます。
私はこの人の – なんと言えばいいのでしょう – かわいた感じの感情が大好きです。すべてが合理的で理性的で、なにより常に前向きだ。そして「負の感情」を徹底的に認めようとしない強さが大好きだ。
でもそんな言い方をされればカオをしかめる人がいるとは思いますが、彼女の生きたニューヨークという町は日本でいうところの国民保険がなく、高い治療費を稼がなければ病院にいけない国にあるのだ。彼女は自分の癌と戦う為にそれにおいてはアメリカ最高峰の病院で治療を受けようとしているのだ。もちろん自らの稼いだお金だけで。その為に彼女は文字通り死ぬまで働かなくてはいけない。働けなければ死ぬのみである。彼女には親の待つ日本に帰国するという手段もあったはずだが、それを拒否し、そのどこが間違っているのだとばかりに、自らの死を全面的に受け入れる。「コンスタントに仕事があることに感謝する。毎日取り組むべき仕事がなかったら、どうやってこの闘いを生きることができるだろう。」もちろん金銭的なことと精神的支柱として、という意味だと思っている。そして本当に仕事をしながらこの世を去るのである。
■出版社
朝日新聞社
■著者
千葉 敦子
■内容(Amazonより)
がんと闘いながら、ニューヨークでフリーランス・ジャーナリストとして執筆活動を続けていた著者が、三度目の発病とその治療の経過、日々の暮らし、アメリカ情勢への所感などを、死の二日前まで書き綴った日記。迫り来る運命にも目を逸らすことなく、いっそう強靭に自らを燃焼させ続けた姿は、「生きる」ことの意味を深く問いかけて感動を呼ぶ。
それと同時に、彼女は生きることを積極的に楽しもうとした。
病気であろうともクリスマスには友人と一緒に買い物をしてから映画館に赴き、その後にディナーを楽しむ(もちろん風邪をひき死ぬかもしれないと覚悟のうえで)。またある時には、友人がおせち料理をサプライズで届けてくれた。とても一人で食べ切れる量ではないので、なんと彼女は友人に電話をしまくって、急遽、参加者6名足らず、開催時間わずか2時間のパーティーを開くことにこぎつけたのだ。ホステスとして、彼女は友人達に心を配る。テーブルの上を片付け、テーブルクロスをかけ、花とロウソクを飾り付ける。そして来てくれた友人達にわずかでも楽しんでもらおうとする。日常生活でもそうだ。花をいけ、香り高いスープを作ろうとする。鼻も効かず、味覚も失われ、立つことすら苦痛であるのに、自分の食事を自分で作るために台所に立とうとするのである。これが癌末期の病人のする事なのだろうか。もちろんそんなことを彼女の前で言おうもうのならありとあらゆる罵詈雑言が返ってくるだろう。貴方とは話すことが何もない! 出て行ってください! 私の時間を奪わないで! ってね。
そんな彼女に謝りながら、話題を変えようとする。
「ところでさ! 最近心踊るような事があったかい?」
「もちろん! 私、引越ししようかと考えているの。引越しって、私、大好き。」
おいおい、・・・ここまで来て、本気ですか? でも、もちろん彼女には悟られてはいけません。笑顔で応えましょう。「それは素晴らしい!」