Palmのあった風景

 PalmというPDAをご存知でしょうか。
 PDAとは、Personal Digital Assistantの略で携帯情報端末のことである。スケジュール・ToDo・アドレス・メモなどの情報を携帯して扱うための小型機器を総じてそう言うらしい(もともとPDAという考えは、Apple Newtonの開発を推進した1990年代初頭のApple Computer CEOだったジョン・スカリーによる造語とのこと)。まあ単純に、システム手帳の電子版だと思ってもらっていいのではないでしょうか。そして1990年代に勃興したPDAの流れは、AppleのNewtonを代表として様々なメーカーがいろいろなモノを提案し続けました。その中でも私が愛したのはPalm社のPalm OSです。私はPCとPalmを連動させる為の – 今風に言えばiTunesのような役割を担っていた – 「Palm Desktop」を今でも愛用しています。そしてこの古くさいソフトを使う度に思うのは、結局ヒトがしていることってのは「いつ&いつまでに」(=スケジュール)「何を」(=ToDo)「だれと」(=アドレス)実 行 す る の か ということ。そしてどれだけのことに気 が つ き覚えていられるのか(=メモ)につきるのかな? なんて勝手に想像してしまいます。 そういう意味で言えば「スケジュール」を基本画面としたインターフェースに「ToDo」「アドレス」「メモ」が付随しただけの「Palm Desktop」ほどシンプルを極めたPDAソフトは無いのではないだろうかと今でも思うのです。それと同時に、ヒトがプロジェクトを進めていく上で必要な要素とは本当にこれだけなの? と逆に考えさせてくれるソフトでもあるのです(各論と総論の問題でしょうか)。 しかし残念なことに、それらはいつのまにか姿を消してしまいました。最後までSONYがCLIEというブランドでがんばってくれていましたが、それも2007年7月をもって終了となってしまいました。私にとってはいろいろなインスピレーションを与えてくれただけにとても残念です。今ではその役割をiPhoneが担ってくれています(←PDAに関してだけは言いたいことが ゴ マ ン とありますが)。 今でも端末であるPalmやCLIEを引っ張りだしてきては昔を懐かしんでいたりします。
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 さて、私の敬愛する岡本太郎が「本当に自分が欲しいモノは自分で作るべきである」的なことを書いていたのを今でも覚えているのだけれども – だからでしょうか – 何かあたらしいモノをみかけた時、それが作り手にとって本当に必要だから作られたモノなんだろうなあって感じることがあります。それを必要として作り出したヒトの情熱というかパワーが宿っているように感じるからです。でも時が進むにつれて、最初はそうであったモノが作り続けられていくうちに、ただただ薄くなるだけだったり、丸っこくなるだけだったり、軽くなるだけだったりしていくと、私は逆にそのパワーがどんどん薄れていっているように感じるのです。あ の ワクワク感が感じられなくなっていくように思うのです。そのモノの進化としては正しいのでしょうが – でもちょっと待って – そのモノの魅力自体は薄まってきてはいないのだろうか?
 モノは自ら進化する(ヒトの手をはなれて)。
 その進化がヒトの為にあるのか or モノの為になされているのかは意識するべきではないのかと思ってしまうのです。だから私は気に入った、今は使わなくなったモノを後生大事にとっておいては時々引っ張りだしていじくっていたりします。そうすることで何かを再認識しているような気分になるからなのかもしれません。それはあくまでもスタートでありゴールでは決してなかったはずだと。 ま、年寄りというのは昔のことを美化するものらしいので、まあ私も歳をとったということなのでしょうね。でわでわ。

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