「安土往還記」

 私は色んなジャンルの本を読むことが好きなのですが、それでもその内容は偏っていると思います。中でも歴史物には触手が動きません。偏食は人生を損させていると思っていますが、どうにも読む気にならないのです。なので司馬遼太郎の作品もいまだに読んだことがありません。今回紹介する作品はそんな私が唯一所有している歴史小説です。もし著者が辻邦夫でなければ決して読まなかったと思います。
 私には明智光秀のいわゆる本能寺の変というのが不思議に感じるのです。なんでこの人、急にキレちゃったんだろう? 私は歴史が全く詳しくないので、本当はなるほどと納得させられるような説明が世間にはあるのかもしれないのですが、私が見聞きしている範囲では、怨恨説が多いように思われます(えー、ほんとにそうなのかな? そう思わされてるだけじゃないのかな?誰かに。尾ひれが付きすぎてない?)。また彼も男性である以上、てっぺんになってみたいというシンプルな欲求もあったかもしれない(朝廷がバックについていたとする見方もあるそうですが、虎の威を借る狐のようなことをよしとする人なのかな?)。でもそれ以上に彼は戦国時代を生き抜いた名将なのに、と思ってしまいます。清濁併せ呑む度量はきっとあっただろうし、損得の計算はシビアであったに違いないと思います。それでも行動を起こしたってことですよね? だから金やプライドやしがらみの為だけではないという事なのかな? だから本当はもっともっと単純な理由だったりするんじゃないかなと思うのですが、でもそれら以外で納得できる理由ってなにがあるのかなあ、なんて思ったりします。
 こんな私の疑問に著者はある仮説を提示してくれている。その仮説はあまりにも単純で人間くさくてこどもっぽい理由だったので、かえって私はホントにそうなのかもしれないと今でも信じていたりします。ただその理由をここには書きません。それだけでは明智光秀があの行動を起こしてしまった説明にはならないと思うからです。それはあらゆる関係の中でその座標にあってはじめて意味が発生するタイプのものだから。もしくは積み重なってはじめて意味が生まれるタイプのものだから。終焉に向かってあらゆるものが勢いを増しながら収束していくストーリー展開はやはり歴史物の醍醐味なんでしょうね。
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■出版社
新潮社
■著者
辻 邦生
■内容(カバーより)
 争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあって、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする ”尾張の大殿(シニヨーレ)” 織田信長の心と行動を描く。ゆたかな想像力と抑制のきいたストイックな文体で信長一代の栄華を鮮やかに定着させ、生の高貴さを追求した長編。文部省芸術選奨新人賞を受けた力作である。
 これは日本人とは全く関係のないイタリアの船員の目線を基準とし、それぞれの登場人物がそれぞれの譲ることのできない事情の為にある結論に収束していくしかなかった「織田信長」を中心とした一時代を読むことができます。もちろんその収束は「本能寺の変」です。それは不可避であると考えられる。逆に言えば、こんなことが起こると分かっていながらお互いそれを回避することができなかったと言ってもいいかもしれません。きっと織田信長も明智光秀も本能寺では他人事みたいに涼しげな顔をしていたのではないだろうかと想像してしまいます。
 そしてこの緻密な物語を描くことができるのは、辻邦生以外いないんじゃないかとも今だに思っています。

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